真田丸・第18回「上洛」(12) 真田昌幸も理解していない「与力(よりき)」ってなんだ?

「万一、戦になった時、誰が誰にしたがって軍勢を動かすか、そこだけはハッキリとしておかねばならぬ」石田三成 真田丸
「万一、戦になった時、誰が誰にしたがって軍勢を動かすか、そこだけはハッキリとしておかねばならぬ」

信繁の骨折りもあり、ようやく秀吉との謁見を果たした真田昌幸。
そこで石田三成は、今後の豊臣家の家来としてのルールを説明してくれます。





「大名はそれぞれ、最寄りの大大名の寄騎(よりき)となり、出陣の時はその下知に従う、よろしいか?」石田三成 真田丸
「大名はそれぞれ、最寄りの大大名の与力(よりき)となり、出陣の時はその下知に従う、よろしいか?」

ドラマで初登場の「与力」という名詞。

石田三成が説明するように「出陣の時はその下知に従う」ことです。
下知とは命令のこと。
つまり「最寄りの大大名の指揮下に入り、その命令に従う」ということ。



「安房守殿は徳川の寄騎となるように」石田三成 真田丸
「安房守殿は徳川の与力となるように」

なんと、今まで散々敵対してきた徳川家康の与力になれとのこと。


「真田に徳川の家来になれと仰せられますか?」真田信繁 真田丸
「真田に徳川の家来になれと仰せられますか?」

これには、真田家として納得いかない様子。


「家来ではない。寄騎だ。力を貸すのだ」石田三成 真田丸
「家来ではない。与力だ。力を貸すのだ」

しかし、石田三成はこう言います。
今回は、真田家の人たちもイマイチ理解していない「与力」について解説したいと思います。


源頼朝
与力は寄騎とも書きます。
鎌倉時代などは、単に加勢する人のことを指しました。
今風にいうなら「応援」とか「ヘルプ」ということになるでしょうか。
※画像は大河ドラマ「平清盛」の源頼朝
 源頼朝は鎌倉幕府を作りました。






源頼朝
加勢に行く人を与力。
加勢される人のことを寄親(よりおや)といいます。
ただ、問題なのは、この与力たちが、そのまま寄親の家来になってしまうケースがあったこと。
こうなると、寄親になった人の力が強くなりすぎるため、大名としては扱いにくくなります。


黒澤明 影武者
そこで戦国時代になると、寄親も与力もあくまで大名の家来で、与力はあくまでも一時的な応援である、というルールが徹底されるようになっていきます。
しかし、この与力というやり方、戦国時代では、あまり流行りませんでした。


黒澤明 影武者
というのも、武士にとって、戦争に出る準備は原則、自分の費用でする義務がありました。
武士たちがこの義務を守るのは、戦争で活躍して、褒美を貰いたいからです。
しかし、与力になって、誰かの指揮下で戦うと、この手柄が曖昧になってしまいます。


「気に入らん!!大名の座とは、力ずくで勝ち取るものではないのか」真田昌幸 真田丸
例えば、今回の真田丸では、真田昌幸は徳川家康の与力になりました。
もし戦争になった場合、真田昌幸は徳川家康の軍に混じって戦うことになります。
この部隊が活躍して、戦争が勝利に終わった場合、普通は徳川家康の手柄ということになってしまいますよね。
ということで、戦国武将にとって、与力になることは、嬉しいことではなかったのです。


「豊臣の大名として、これからはワシのために使こうてくれ」豊臣秀吉 真田丸
しかし、一方で全軍の指揮を取る総大将としては、与力の制度は非常に便利なものでもありました。
例えば、同程度の敵が2箇所にいる場合、軍を二箇所に配置する必要があるわけです。
これを秀吉を例に取って説明します。


裏切り者にも寛大な徳川家康 真田丸
一方の敵を徳川家康に攻撃させるとします。
徳川家康は領地から考えて、3万程度の兵を動員出来たでしょう。


秀吉に拝謁できた上杉景勝 真田丸
また一方の敵は上杉景勝に攻撃を命じるとします。
景勝の領地は、家康ほど大きくなく、その兵力は多く見積もっても1万程度と思われます。



「正直ワシは、家康に会うのが恐ろしくて仕方ないんじゃ・・・」豊臣秀吉 真田丸
総大将の秀吉としては、数の少ない上杉景勝の方の兵を増やしたいですよね。
しかし、徳川家康の家来の一部を上杉景勝に貸してやれってなことは、基本的には出来ません。
繰り返しますが、戦争の費用は、それぞれに負担しているからです。


「どうぞお座りくだされ」真田昌幸 真田丸
しかし、徳川家康への与力にしてある真田昌幸であれば、「やっぱり、徳川に貸すのはやめた。上杉に貸すことにしたわぁ」っていうことが出来るのです。
なにしろ、真田昌幸は徳川家康の家来ではなく、あくまでも豊臣秀吉の家来で、徳川家に加勢に来ているだけですから。


そして織田信長 真田丸
この与力制度を大々的に利用したのが、織田信長。
天下統一の途中、周囲は敵ばかりだった信長は、与力をあちこちの戦場に貸したり返却させたりして、効率的に戦ったのです。


明智光秀 真田丸
ちなみに明智光秀が本能寺の変で織田信長を討ったのは、本来は秀吉の与力として戦場に行く途中でした。
秀吉は当時、毛利家という大名と戦っており、最終決戦に備えて、兵力の増強を信長に申し入れていたのです。


「良き面構えじゃ」織田信長
結果的に見れば、織田信長は与力を上手く使って効率的に戦うことで天下統一目前まで勝ち上がりましたが、最後は与力によって殺されたということもできます。


八丁堀の七人 与力
ちなみに時代劇好きな人なら、画像の犯罪を捜査する人たちのことを「与力」とか「同心(どうしん)」とか呼んでいるのを聞いたことがあるかと思いますが、これは江戸時代のことで、戦国時代の時点では、捜査官を与力と呼ぶことはありませんでした。
というわけで、これは関係なし。
※画像は時代劇「八丁堀の七人」の主人公たち。
与力・青山久蔵とその配下の同心たち。



「何故にこの陣羽織を・・・」豊臣秀吉 真田丸
話がいろいろとそれましたが、元に戻しますと、真田昌幸はあくまでも豊臣秀吉の家来になったのであって、徳川家康の家来になったわけではありません。
石田三成が言うように「力を貸す」だけです。
また、与力として徳川家康の指揮下に入るのも、あくまでも戦争の時のみ。
常時、家康の側で家来同様にこき使われるといったこともありません。


「秀吉の家来になった徳川の、そのまた家来。はぁ・・・」真田昌幸 真田丸
「秀吉の家来になった徳川の、そのまた家来。はぁ・・・」

真田昌幸も、あまり理解していないようで(汗)
関連記事

テーマ : 真田丸
ジャンル : テレビ・ラジオ

コメントの投稿

非公開コメント

スポンサードリンク01
カテゴリ
プロフィール

うんちく仙人

Author:うんちく仙人
このサイトでは、歴史に興味が無い方でも、歴史ドラマをドラマとして楽しめるように手助けする趣旨で書いております。
特にドラマは好きだけど、歴史はあんまりわかんないという女性の一助になれば幸いです。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
スポンサードリンク02
RSSリンクの表示
リンク