真田丸・第36回「勝負」(18)関ヶ原の戦いその四、戦いがたった一日で終わってしまった理由とは

徳川家康 真田丸
ここでは、関ヶ原の戦いがたった一日で終わってしまった理由を考察してみたいと思います。




関ヶ原の戦い・合戦
まず関ヶ原の戦いについてですが、日本全国のほぼ全ての大名がなんらかの形で参加した戦国時代の集大成というべき戦いであったことに注目しておきます。
豊臣秀吉が天下を取り、北条討伐など日本中の部隊が動員されるという戦いは外にも有りますが、日本の大名がほぼ半々に分かれて、しかも一箇所に集まって戦う戦争というのは、ほとんど唯一と言っていいでしょう。


「甲斐・信濃、二カ国・・・」真田昌幸 真田丸
日本を二分しての戦いという意味では、当時の戦国武将たちが頭に浮かんでいたのは、おそらく応仁の乱です。
1467年から開始された戦いで、この戦いもまた東軍・西軍に分かれて戦われました。
ただし、関ヶ原の戦いのように、大規模な戦いが行われたというよりは、互いの大名が東西に分かれて、だらだらと断続的に各地で戦われたもので、終戦までにおよそ10年ほどかかってしまいます。
※関ヶ原の戦いは1600年のことなので、応仁の乱は150年ほど昔の話ですが、知識は当然あったでしょう。我々現代人が、世界大戦と言われると第二次世界大戦を思い浮かべるのと一緒です。


「天下分け目の戦でござる。一月や二月で勝負が付くとは思えません」直江兼続 真田丸
「天下分け目の戦でござる。一月や二月で勝負が付くとは思えません」

上杉景勝の配下・直江兼続がこう言っていたように、日本を二つに割る戦いですから、応仁の乱のようになると予測していたはず。
真田昌幸も戦いは長引くと予測していたのは、この応仁の乱の知識があったからでしょう。
おそらく当事者の徳川家康や石田三成もそう考えていたはずです。



関ヶ原の戦い
しかし実際にはそうなりませんでした。
理由の一つは、関ヶ原に大軍が集まって決戦し、たった一日で決着がついてしまったからです。


7歳の豊臣秀頼 真田丸
また豊臣秀頼が、戦いの当事者でなかったということも大きな理由でしょう。
関ヶ原の戦いは、あくまでも豊臣家の家来同士の派閥争いとして終始したのです。
少なくともこの時点では、徳川家康も豊臣秀頼の家来として、君側の奸を退治したという立ち位置です。

【君側の奸について】
真田丸・題32回「応酬」(3)くんそくのかんってなに?


石田三成 真田丸
このため、戦いに敗れた石田三成は、逃げ場を失ってこれ以上戦うことはできなくなります。
もし、豊臣秀頼の命令で戦っていたならば、関ヶ原で敗れても、一度大阪城に逃げ込んで態勢を整え、再度味方になる大名を募って戦う事になったはずです。
そうなれば、誰もが想定していたように、応仁の乱と同じく10年以上続く騒乱の幕開けになったかも知れません。


石田三成・切腹 真田丸
しかし、そうではなかったため、石田三成はアッサリ徳川家康に捕まります。
また、これ以上、石田三成に力を貸そうという大名も現れませんでした。


豊臣秀頼 真田丸
秀頼の立場から言うと、物心が付くまでに、既に決着がついてしまった事になります。
戦いはあくまでも豊臣家の家来同士の戦いでしたが、結果として徳川家康が勝ったため、家康は天下人へ大きく前進することとなります。

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