真田丸・第38回「昌幸」(13)加藤清正の秀頼への忠誠は本物なのか??

加藤清正と豊臣秀頼 真田丸
豊臣秀頼と徳川家康の会見に同行し、家康の「下がれ」という命令に逆らった加藤清正。
しかも、途中で石田三成から「命に代えてもお守りしろ」と遺志を託されたシーンも入りました。
ドラマでは、あくまでも秀頼一途な加藤清正といった印象でしたが、正直、この描かれ方には違和感がありました。
というのも、過去の多くのドラマや小説は、ここまで鮮明に秀頼に尽くす加藤清正を描いていないからです。
むしろ、豊臣家に対する恩義と、徳川家康に対する尊敬との間で揺れ動く加藤清正。と言った描き方の方が圧倒的に多いです。
というわけで、どちらが実像に近いのか考えてみることとします。



関ヶ原の戦い・合戦
まず、豊臣家が没落するきっかけとなった関ヶ原の戦い。
この戦いそのものには加藤清正は参加していません。
当時、全く別件で徳川家康の怒りを買っていた加藤清正は、領地の肥後(ひご=現熊本県)で自宅謹慎中でした。
それだけに、加藤清正は西軍(石田方)に付くだろうと予想されていたのです。


「朝鮮での戦に力を尽くした我々に、全く報いようとしないのは何故です?」加藤清正 真田丸
しかし、加藤清正は東軍(徳川方)に付くことを表明。
領地の肥後は九州ですから、さすがに美濃(みの=現岐阜県)で行われた関ヶ原の戦いそのものには参加出来ませんでしたが、九州の西軍に付いた大名たちを攻撃します。
徳川方を東軍・石田方を西軍ということからも分かるように、西日本にあたる九州は西軍の大名が多かったわけですから、これはなかなか覚悟がいることだったはずです。
結果、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝ったため、加藤清正は勝者の側に入ることが出来ました。
このことが結果として、豊臣家の没落に繋がるわけですから、ここだけを見ると、加藤清正が秀頼のために動いたというのは無理があるように思えます。
ただし、関ヶ原の戦いでは、徳川家康もあくまで、豊臣家の家来として戦ったのですから、清正もこれを素直に信じたのかも知れません。

【徳川家康は豊臣家の家来として戦った過去記事】
真田丸・第36回「勝負」(18)関ヶ原の戦いその四、戦いがたった一日で終わってしまった理由とは


「加藤主計頭(かずえのかみ)清正これにあり!!」加藤清正 真田丸
ただ、その後に徳川家康が行った論功行賞(ろんこうこうしょう)については疑問が残ります。
※論功行賞は「功績の有無や大きさの程度を調べ、それに応じて ふさわしい賞を与えること」
加藤清正は、徳川方に付いた褒美として肥後でさらに領地を貰っているのです。
元々、加藤清正は肥後の大名ですが、肥後の国を丸々貰っていたわけではなく、およそ半分程度が清正の領地でした。
もう半分を持っていた大名が西軍についたため、関ヶ原の戦い終了後に取り潰され、その領地が加藤清正のものになったという経緯です。


「下がれ。肥後守(ひごのかみ)」徳川家康 真田丸
この論功行賞こそが、私は歴史のターニングポイントだったと考えています。
ドラマでは描かれていませんが、徳川家康は自分に味方した大名たちに勝手に領地を分け与えています。
西軍についた大名たちは取り潰されるか、生き残っても大幅減俸。
ドラマでも上杉景勝が120万石から30万石に減俸されたことが描かれていました。
取り潰したり、減俸したりすれば、当然領地が余るわけですが、それを自分に味方した大名に分配しました。
更に家康は、豊臣家自体の領地も勝手に恩賞としてあげてしまっています。


【徳川家康の論功行賞の過去記事】

真田丸・第38回「昌幸」(5)着々と地盤を固めるエゲつない徳川家康を解説


老衆・前田利長 真田丸
例えばドラマでは全く出番の無くなった前田利長。
父・前田利家が亡くなってからは、完全に徳川家康の配下となり、関ヶ原の戦いでも活躍。
元々24万石の領地が一挙に100万石の4倍増となっております。
前田家はやや極端ですが、徳川方についた大名は、それぞれ徳川家康より恩賞を貰っているということが重要です。


上座に座る徳川家康 真田丸
つまり、今更、徳川家康を否定して、豊臣秀頼が復権してしまうと、自分たちが領地を貰った行為そのものが否定されることになりかねないのです。
結局、関ヶ原の戦いはきっかけであって、その後の論功行賞こそが、徳川家康の地盤を作ったと言えるのではないでしょうか。


「いろいろあったが、ワシは根に持たぬ男じゃ。これからは助けあって、敵を打ち破ろうではないか」加藤清正 真田丸
そして、加藤清正が豊臣家を思うならば、ここで異論を挟むべきであったでしょう。
しかし、加藤清正自身も徳川家康より領地を貰ってしまっています。






「肥後守様、ここから先はご遠慮頂きたく存じます」本多正信 真田丸
肥後守様、ここから先はご遠慮頂きたく存じます」

また加藤清正はいつの間にか肥後守(ひごのかみ)と役職が変わっているのにお気づきでしょうか。
以前までは主計頭(かずえのかみ)でした。

【加藤清正の官職についての過去記事】

真田丸・第14話「大阪」(10)じゅごいのげ?かずえのかみ?


「家康は征夷大将軍を秀忠に譲った」徳川秀忠 真田丸
元々の主計頭より、新たな肥後守の方がランクが上の官職です。
この官職になったのは1605年。
つまり、関ヶ原の戦いの後です。
貰った領地は肥後の国。
貰った官職は肥後守。

そして1605年と言えば、徳川家康が息子・秀忠に征夷大将軍を譲ったタイミングと一緒です。
征夷大将軍を譲ると言っても、征夷大将軍自体は天皇陛下から頂いた官職ですから、天皇陛下の許可が必要です。
ですので、この頃、徳川家はかつての秀吉のように、天皇家と密接に関係を持っていたはずです。
そうして、(みかど=天皇)から、征夷大将軍を貰えるように運動していたのは間違いありません。
この時期と、肥後守を貰った時期から考えて、これは徳川家康が働きかけたものと考えていいでしょう。
つまり、加藤清正は、肥後の領地と、肥後守の官職を徳川家康から貰っているのです。


「それがしは大御所様(※徳川家康)の警護のために参るんだ!!」加藤清正 真田丸
「それがしは大御所様(※徳川家康)の警護のために参るんだ!!」

また、ドラマでは豊臣秀頼にくっついて、会見の場に出ようとしたのを本多正信に止められ、秀頼ではなく"大御所様の警護のために"行くのだと言っています。


本多正信 真田丸
これに対して本多正信は「そうは見えませぬな」と言っているように、ドラマ内では、秀頼に付いていきたい清正が方便として言った印象に見えます。
しかし、実情はかなり違います。
この時期、加藤清正は娘を家康の息子に嫁がせています。
※秀忠ではなく、十男・頼宣。ドラマには出てきていません。
加藤清正は、秀頼の警護ではなく、ましてや徳川家康の警護でもなく、この家康の息子の警護としてこの会見に立ち会っているのです。
息子とはいえ、徳川の者ですから、ここから派生して「大御所様の警護」というセリフになったような気配ですね。
ただし、いずれにせよ、どちらかと言うと徳川方の立場で会見に臨んだと言えるかもしれません。
※もちろん、内心はどうであったかわかりませんが、


加藤清正 真田丸
では、完全に徳川家康に肩入れしていたのかというと、これもそうではありません。
先述の通り、関ヶ原の戦い後、徳川家康は勝手に領地を分配してしまうわけですが、この時に蔵入り地(くらいりち※後述)についてもうやむやにしてしまいます。



お米が兵糧
蔵入り地とは、豊臣秀吉の代に実施されたもの。
秀吉が天下を取り、全ての大名が秀吉の家来になりました。
秀吉の家来とは言え、大名たちは各自に自分の領地を持っており、その領地からの収入で暮らしています。
収入というのは年貢のことで、ようするに米です。
本来は大名の領地で取れた米を年貢として取り立てる権限は、全て大名が持っているわけですが、大名の領地の一部から取れた米を秀吉に上納するという制度がありました。
上納する米が取れる領地を蔵入り地と言います。
秀吉は各大名の領地に蔵入り地を設けて、上納させていたのです。
ヤクザの上納金に近い制度ですね(汗)
豊臣家の収入は、豊臣家自体の領地からの収入と、この蔵入り地からの収入があったわけです。


豊臣秀頼と加藤清正 真田丸
関ヶ原の戦いで徳川家康が領地を分配してしまったわけですから、この蔵入り地も曖昧になるのは当然と言えば当然です。
しかし、清正は関ヶ原の戦い後も、相変わらずクソ真面目に蔵入り地からの収入を豊臣家に収めていたことが分かっています。
これだけを見ると、やはり豊臣家を大事に思っていたのは間違いないでしょう。
ただし、蔵入り地からの収入を収めていたのは、加藤清正だけでなく、かなりの大名が以前からの取り決めどおりに収めていたという資料も出てきています。
この時期、実力のある徳川家と、形式的な主人である豊臣家。
どちらを立てれば良いのか、多くの大名が悩んでいたということのようですね。


弓を射る豊臣秀頼 加藤清正 片桐且元 真田丸
ドラマでも片桐且元と一緒に徳川家康との会見について話し合うシーンがありましたが、この会見が実現するために加藤清正が動いたことは事実です。
実際の加藤清正は、他の多くの大名同様、関係が悪くなる一方の徳川家と豊臣家の仲をなんとか取り持ちたいと考えていたのは間違いないと言えるでしょう。


加藤清正 真田丸
加藤清正にとって徳川家康は恩人です。
朝鮮出兵で秀吉に謹慎させられた清正に罪はないと判定したのは家康。
※この件はドラマでは出てきていないので以下を参照ください。
真田丸・第34回「挙兵」(11)ほぼ天下を手中にした徳川家康。飛ばされたエピソードそのニ・七将判決
真田丸・第34回「挙兵」(3)加藤清正たちが怒っている本当の理由とは
関ヶ原の戦い後、領地を倍増してくれたのも家康です。
一方、加藤清正にとって豊臣家は単なる主人ではありません。
豊臣秀吉とは血のつながりがあります。
秀吉が出世したからこそも、加藤清正も出世したのであって、秀吉がいなければ、清正はどこかで無名の百姓として生涯を終えていたはずの人間です。


「明がワシに頭を下げおった」豊臣秀吉 真田丸
血のつながりがあり、主人である豊臣家と、恩人であり、最大の実力者である徳川家康との間に挟まれて、加藤清正はかなり苦しんでいたに違いありません。
こういう経緯から考えて、清正にとって一番の願いは、豊臣家と徳川家が和解することだったでしょう。
今回の会見は、清正にとって、一縷の望みを託したものだったのです。


「そのような者がおるはずがござらぬ!!」福島正則 真田丸
なお、ドラマでは積極的に徳川家に味方して、今回の会見でも全く出番の無かった福島正則。
やたらと豊臣家に未練がある加藤清正と比較すると非情なようにも思えますが、福島正則もまた、秀吉の血縁であることから出世した人で、立場も思いも加藤清正とほぼ一緒だったでしょう。
このため、この会見の実現に大いに尽力しており、加藤清正以上にこの会見に託していたようです。
ただし、本人は病気のため(仮病?)会見そのものには立ち会っていないので、ドラマでも出てこないのは当たり前のことではあるのですけども、加藤清正だけを忠義者に描くのは、福島正則には少し可哀想ですよね。




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