真田丸・第40回「幸村」(2)有名な方広寺鐘銘事件は家康の陰謀だったのか?

清韓 真田丸
鐘に書く碑文が元で、豊臣家と徳川家の戦いに発展していくという今回のシナリオ。
確か歴史の教科書にも出てきていたかと記憶しています。



「つまりは難癖をつけられたのだ」片桐且元 真田丸
「つまりは難癖をつけられたのだ」

ドラマでもそうであったように、徳川家康が些細なことに難癖を付けて、豊臣家との戦争に発展したというのがドラマや小説の一般的な描かれ方です。


「これにはいささか趣向がございましてな」清韓 真田丸
「これにはいささか趣向がございましてな」

ただし、ことの発端となった「国家安康」や「君臣豊楽」が、むしろ徳川家康を喜ばせようとして入れたというのは、あまり描かれ無いところです。
しかし、最近の研究では、家康を喜ばせるためにわざと入れたという考えが有力のようなので、今回の描かれ方になったのでしょう。


清韓 真田丸
家康という(いみな)を切り分けて入れてしまうという行為が、その当時の人達にとってどう感じるのかは、現代人の我々にはピンと来ませんが、この後、清韓は同じ僧侶たちからも常識や礼儀に欠くやり方と避難されていることからして、やはり問題があったようです。

【諱に関する過去記事】

真田丸・第一話「船出」(3) ここがこだわり、真田丸での名前の取り扱い
真田丸・第37回「信之」(5)真田信幸の諱が信之に変更。実は強制されたものではなかった??


徳川家康 真田丸
そもそもこの事件そのものが、徳川家康の仕組まれたものだったという説もありますが、最近ではやはり清韓の文章自体に問題があったと考えられています。



君臣豊楽 真田丸
また管理人としては国家安康(こっかあんこう)よりも、こちらの君臣豊楽(くんしんほうらく)のほうが問題を感じます。
ドラマで清韓が言っていたように「豊臣を君(きみ)として楽しむと読めなくもない」わけです。
君とは主人ということ。


徳川家康 真田丸
この考えこそが、徳川家康の怒りをかったのではないでしょうか。
家康としては、豊臣家が徳川家の家来として生きていくならば、ある程度の名誉ある立場で生き残らせて、穏便に済ませるつもりだったような気がします。
しかし秀頼は君臣豊楽という文章で、相変わらず豊臣家こそが君である、と宣言したとも取れます。


「捨てが!!元服するまでは生きていたいんじゃ。ただ生きているだけではいかん。捨てが、ワシのようになりたいと思う、そんな父親であらねばならん!!」豊臣秀吉 真田丸
豊臣秀吉にしても、元々は主人・織田信長から政権を奪っているわけです。
しかし、織田家の中で逆らわなかった人たちは大名として生き残らせています。
徳川家康はそれを考えていたように思います。


関ヶ原の戦い・合戦
その一番の根拠は、この時期、既に関ヶ原の戦いから14年も経っているということ。
徳川家康は関ヶ原の時点で60前でした。
この当時の感覚から言えば、いつ寿命が尽きてもおかしくない年齢です。
ですので、自分の死後、豊臣家が徳川家に反抗しないように滅ぼすつもりなら、もっと早く手を打ったはずです。
むしろ、家康こそ、なんとか豊臣家が平和に徳川家に従うように願っていたような気がしてなりません。
ちなみに、徳川家康は、これから起こる豊臣家vs徳川家の戦い、いわゆる大阪の陣が終わってすぐに寿命で亡くなることになります。
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